明治に活躍した宇和島の名士達(穂積陳重氏、土居通夫氏、児島惟謙氏)

①宇和島の歴史

穂積陳重ほずみ・のぶしげ)氏
 2021/11/21の「青天を衝け」では、オープニングから10分後ごろに、渋沢栄一氏の長女、歌子 の、旧宇和島藩主・伊達宗城氏からの紹介で旧宇和島藩士出身で、東大法学部教員の穂積陳重(ほづみ・のぶしげ)氏との出会いから、結婚後の場面までがかなりの時間、放映されていました。https://www.excite.co.jp/…/Bizjournal_202107_post_235302/
には、旧宇和島藩主・伊達宗城と渋沢栄一氏の関係が、以下のように書かれています。

 なぜ旧宇和島藩士かというと、渋沢栄一は1869(明治2)年に明治新政府の大蔵省に出仕したのだが、当時のトップ・大蔵卿(きょう)が、旧宇和島藩主・伊達宗城(だて・むねなり)だったのだ。宗城は栄一の才覚を見込んで伊達家の経済顧問を委嘱。栄一が第一国立銀行を設立すると、宗城も同行に出資した。

 穂積陳重氏は東大法学部長として「法学の祖」、「民法の父」と称されるなど明治維新後活躍され、その功績を記念して、JR宇和島駅から5分ほどのところに「穂積橋」がかけられています。穂積橋のエピソードについては、穂積橋のすぐ近くの案内板に以下のように書かれています。 穂積橋は、当市出身で近代に活躍した法学者、「穂積陳重」ゆかりの橋である。大正13(1924)年、市民が氏の功績を記念すべく、銅像建立を申し出るが、「老生は銅像にて同郷萬人に仰ぎ視らるるよりは、公衆に喜んで渡るるを以て無上の光栄といたし候」と固辞。氏の没後、昭和5年(1930)年、辰野川にかかる本開橋の架け替えの際、愛媛県の許可を得て、宇和島市が「穂積橋」と命名したものである。

土居通夫(どい・みちお)氏
2021/11/28の「青天を衝け」では、渋沢栄一氏の盟友である五代友厚氏が49歳で亡くなられたシーンがありましたが、当時、五代友厚氏の部下として活躍した一人が、宇和島出身者である土居通夫氏です。大阪商工会議所内には3名の銅像が立っているとのことですが、https://www.osaka.cci.or.jp/wakasj/
一人は言うまでもなく、初代会頭の五代友厚氏で、第7代大阪商工会議所会頭として22年勤めた土居通夫氏もその一人、会頭時代には第5回内国勧業博覧会を誘致し、新世界に「通天閣」を建設されたとのこと。また、五代友厚氏の三女・芳子を養女に迎え、土居家を継がせているとのことです。

坂本竜馬との出会いもあり、「司馬遼太郎」の小説には、居合の達人(窪田派田宮流の免許皆伝)として描かれています。『討ち入りに際し、陸奥が頼ったのが剣客である「後家鞘(ごけざや)の彦六」だった。彦六は後に土居通夫と名を改め、新政府の大阪府権知事、兵庫裁判所長を経て財界に転じ、大阪商工会議所会頭となった。』
https://bunshun.jp/articles/-/49930
「青天を衝け」を通して、明治維新前後の宇和島の名士のエピソードを改めて深く知ることができます。

●児島惟謙(こじま・いけん)氏

2021年の大河ドラマ「晴天を衝け」は41話で完結。例年は50話ほどあるとのことなので、例年通りであれば、もう少し、1900年以降の史実も詳しく知ることができたのでは思い残念ですが、今まで、新政府=善、幕末の徳川幕府・幕臣=悪のイメージが刷り込まれていただけに、徳川慶喜や幕末の徳川幕府の行政や幕臣達の経験が明治維新以降の発展に大いに寄与していたことが分かり、イメージも大きく変わりました。

これまでは、明治維新以降のドラマは戦争など血なまぐさい場面が多く暗鬱になるため、あまり好んでは見ていませんでしたが、今回の「晴天を衝け」は、当時の方々が様々な逆境の中からでも、無から有を生み出してきたエネルギーを感じるシーンが多く、新たな知識を得られ、とても内容深い大河ドラマだったと思います。

2021/12/5の放送で、大日本帝国憲法が施行されたことが触れられていましたが、残念ながら、宇和島の名士の一人である小島惟謙氏については取り上げられていませんでしたので、少し紹介しておきます。 小島惟謙氏は大日本帝国憲法が施行(1890/11/29)された直後の大審院院長(今でいう最高裁長官)で、1891/5/1に発生した大津事件(ロシア皇太子ニコライ二世が襲われた事件)に対して、時の内閣からは極刑を強く要求されたものの、法に基づくならば、外国人への傷害事件については極刑を課すことはできないとし、無期刑の判決を行い「護法の神様」と日本の世論から高く評価され、当時の欧米列強からも日本の近代化の進展ぶりを示すものという評価を受けた。」方です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%90%E5%B3%B6%E6%83%9F%E8%AC%99
小島惟謙氏は、先の大阪財界の大立役者となる土居通夫氏と同い年で、竹馬の友として窪田派田宮流で居合剣術修業に励んでおり、武芸に秀でた腹の座った方だったのだと改めて感じさせられます。
ちなみに、その後ニコライ二世はロシア皇帝になりましたが、1917年のロシア革命で皇帝を追われ捕らえられ、その翌年、1918年7月、一家全員が当時の共産革命政権の指示で銃殺され、ロマノフ王朝が消滅したとのことです。
また、ソ連崩壊後、ニコライ二世一家と思われる遺骨が発見されましたが、大津事件のときの手当てに使われた布が、DNA鑑定のために提供されたとのことです。

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